2010/03/08
「彼らは殴り合うだけではない」。少なくとも現代小説においては。

ハードボイルドの定義というのは人それぞれなので、「これ」と明確に言い表せるものはありません。
狭い意味で言うならば、男性社会だけで通用する男性固有の価値観の共有を指してそう呼ぶこともあるのですが、そういうものに対しては、斎藤美奈子さんの「男性用のハーレクイン・ロマンス」という批判も存在します。
もちろん、これはハードボイルドの一側面だけに言及した発言で、ハードSFだけがSFではないのと同じ理屈から、完全無欠の指摘とは言い難いのです。
SFの定義が現代では大変難しいように、ハードボイルドの定義も同様です。これは、メディアの種別を問わず、広くハードボイルド的なものに触れたことのある方なら、容易にわかることでしょう。
それでも、私が個人的に好きなハードボイルド論というものはあります。それは、都筑道夫さんの「彼らは殴り合うだけではない」というエッセイです。
これと出会ったときの驚きは、いまでも忘れられません。それまで、さまざまな作家さんの「ハードボイルド論」に感銘を受けてきましたが、これほどまでに、皮膚感覚に近い印象で自分の価値観とぴったり重なり合うものは、他になかったからです。
過去の有名なハードボイルド論としては、レイモンド・チャンドラーの「簡単な殺人法」(現在、『事件屋稼業』創元推理文庫に収録)が、まず思い浮かびます。この論の最後に出てくる「だが、こうした卑しい街路を、ひとりの男が歩いていかねばならぬのである。」から始まる一連の文章は、いま読んでも、とても美しいハードボイルド論です。
ただ、書き手としては、都筑さんの「彼らは殴り合うだけではない」のほうに、ハードボイルドのより広い可能性を感じます。
一般小説でシリアスなハードボイルドを書く行為は、価値観の相対化によって、二十世紀の後半から、非常に難しくなってきたと言われています。しかし、都筑さんの論は、時代の制約をあまり受けないように感じられるのです。汎用性が高く、ミステリ・ジャンル以外に「ハードボイルド的な視点を持ち込む」際に、極めて有効に働くのではないかと感じられるのです。
都筑さんは、ハードボイルドをミステリの一ジャンルというよりも、「ものの見方(視点)の一種」「人間の生き方の一種」として見ている節があります。そして、ジャンルではなく「視点」である以上、この視点は、他ジャンルの小説にも応用可能と考えるべきなのです。
これは、「SFをSFとして成立させているのは、小道具ではなく、その思考方法のほうにある」という考え方に、とても似ています。SF的な小道具が出てくるからSFなのではない。作中に「SF的思考法(SF的論理性)」があるかどうかをSFの判定基準にするという考え方は、そう考えない人もいますが、私にはとても納得のゆくものです。
つまり、都筑さんのハードボイルド論は、現代的なSF設定とも非常に馴染みがいいのです。二十一世紀における複雑な社会構造について考えるとき、非常に役立つものなのです。
以下、この「彼らは殴り合うだけではない」を、差し支えのない範囲で引用してみます。
現在、このエッセイは、『都筑道夫コレクション《ハードボイルド篇》 探偵は眠らない』(光文社文庫)、あるいは、『都筑道夫 ポケミス全解説』(早川書房)で読むことができます。
初出は、昭和三十一年(1956年)一月一日発行『宝石』第106号(岩谷書店)、いま(2010年)から五十四年前に書かれたエッセイです。
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エッセイの冒頭を、都筑さんは、アーネスト・ヘミングウェイの長編小説の内容を紹介しながら書き始めています。この作品の主人公は、恋人が死んでも涙ひとつ見せず、病室から医者を追い出し、死人の顔に冷たい一瞥を投げた後、「ここですることは、もう何もない」とつぶやいて、病院をあとにし、雨の中を何事もなかったかのように立ち去っていきます。
悲恋小説であれば、主人公の詠嘆が長々と描かれ、広告が「泣ける小説!」と宣伝するような作品を、ヘミングウェイは、あっけないほど淡泊な終わらせ方をする。
これをもってして、この主人公を「感情のない人間」、ハードボイルドを「冷酷非情の文学」とラベリングしたことが、日本でハードボイルドに対する大きな誤解を生じさせたと、都筑さんは指摘します。
そして、このような文章が後に続きます。
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(前略)
もう少し説明をつけくわえましょう。ホタルは鳴かないのではなく、わかりきったことですが、鳴けないのです(*1)。鳴けないように生まれついているのです。ハードボイルド文学の主人公たちも、鳴きたくとも鳴けない環境にあるのです。
その環境とは、極度に発達した文明社会です。つまり勿体らしく聞こえるように言えば、ハードボイルド文学とは、近代社会の要求する人間の組織化に対して、圧迫された個性があげる絶望的な反抗の叫びなのであります。たがいに触れあうことのなくなった個性が、相手をもとめてあげる声なき叫びなのです。
(中略)
社会の重圧に歪められて、すなおに触れあうことの出来なくなった個性は、恋愛をするにしても情事というかたちしか取れません。彼らの真情はつねにすれちがい、たがいに傷つけあって破局に進むのです。
ハードボイルド文学の根底に、表看板の冷酷非情を裏切って、じみじみとしたセンチメントが漂っていることは、少し小説を読み馴れたひとなら、誰しも気づくところでしょう。
ただそのセンチメントは、いつも非情の沙漠に吸いこまれてしまうのです。大坪砂男氏の表現を借用すれば、「荒涼たるセンチメンタリズム」なのです。私はハードボイルド文学を、歪められたロマン文学だと思っています。
(中略)
深夜の酒場で探偵が酒を飲んでいると、そこへギャングが現れて殴りあいになり、妙な女がからんできて、そいつを裸にしてみせれば、いちおうハードボイルド探偵小説になりますし、事実アメリカで氾濫している、この派の作品の中にはそういうものも多いのですけれど、そんなものは偽物です。
(後略)
(*1)「鳴く虫よりも、なかなかに鳴かぬホタルが身を焦がす」という唄からの引用。
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都筑さんの論理を敷衍するならば(先の精神性を保ち続けられるならば)、探偵小説・ミステリだけに留まらず、どんな設定の小説でも、ハードボイルド的なニュアンスの導入が可能となります。
たとえそれが、SF作品であっても、職人・芸道の世界を扱う小説であっても。
場合によっては、「犯罪的な状況」の設定すら、必要条件ではありません。
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刑事が殺人犯を追いかける、という設定だけでは、ハードボイルド小説とは呼べません。それは追跡サスペンスです。
追いかける側、追いかけられる側、もしくはその双方に、逃れようのない重い宿命があり、本人たちの自意識がそれに強烈に影響されているとき、その作品はハードボイルド小説として成立します。加えて、そのふたりが社会全体からどう見えているか、どういう存在価値があるのか、という視点が導入されたとき、小説としての広がりと深みは、さらに増すのです。
そして、追う側と追われる側が、その行動を通して、ほとんど同一・同質とも感じられるほどに似通い、社会的な逸脱(これは狂気と呼ぶに相応しい)を繰り返し始めると、それはハードボイルドというよりも、ノワール小説に変貌していくのではないか――というのが私の考え方です。
この変遷過程を見事に作中に含めたのが、ジェイムズ・エルロイの《ロイド・ホプキンス・シリーズ》や『ブラック・ダリア』だという印象があります。
(以後、エルロイの小説が次第に「暗黒歴史小説」としての視点を持つようになるのは、SFやミステリとは違う方法で、小説としての広がりと深みを追求した結果ではないかと思います。現代史を描くという方法が、作品のパースペクティヴを広げる上で、非常に有効だったのかもしれません)
都筑道夫のハードボイルド論には、五十年以上の歳月を経てもなお、読み手の心をうつものがあります。
煌めくような美しさがあります。
ueda at10-03-08|パーマリンク|| Trackbacks(0)



